社会的状況や世間体と闘う。アンチである。同時に、自分に対しても闘わなければならない。

人々は運命に対して惰性的であることに安心している。
無難な道を通り、皆と同じような動作をする事、つまり世間知に従って、世の中に抵抗無く行きながらえていく事が、あたかも美徳であるように思われている。

成功する事が人生の目的であり、メリットであるように誰でもが思っていたし、そう教育された。
だがそんな事に少しも価値があるとは思わない。
自分という人間の全存在、生命それ自体が完全燃焼するような生に賭けるべきなのではないか、そういう自分自身への問いに全身でぶつからずにいられなかった。

人間にとって成功とは何だろうか。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。夢がたとえ成就しなかったとしても、精一杯挑戦した、それで爽やかだ。

「仏に逢うては仏を殺せ」・・・善について考えることは悪を考えることと不可分ですし、美を論じることは醜を論じることに他なりません。
我々人間が普通に生きていくうえでは、こういう二項対立を通じた認識を拒否することはほとんどできません。
実際に臨済の言葉のなかの「仏」という概念も、「衆生」つまり悟りを得ていない一般人との間に線を引いて生み出された概念です。
大乗仏教では法界一如などといって、世界の全ての存在や現象に等しい価値があるのであって、人間が勝手に線を引いて区別する善悪や美醜、上下といった区分に価値を置かないのです。野に咲く名もなき一輪の雑草も、美しくあでやかな大輪の花も仏の世界にあっては優劣をつけられないものだし、世界をそのように見られる存在こそ真の仏である、とするのです。
従って、「仏を殺せ」というのは文字通り殺人を勧めるものではなくて、仏や衆生といった所詮はかりそめの区分にとらわれてはいけない、ということを強調したものなのです。そういう認識をすることが人間の常ではあるけれども、それを当り前と受け止めてはいけない、その認識そのものに安住することなく超える努力をすることこそが仏への道である、というのが臨済義玄の本意でしょう。

仏には逢えない。逢えるはずがない。出遭うのは己自身なのです。自分自身に対面する。そうしたら己を殺せ

他人の目を気にし無い事だ。他人の目ばかりでなく、自分の目を気にしないで、萎縮せずにありのままに生きていけば良い。ダメならダメ人間で良いと思って、ダメなりに自由に、制約を受けないで生きていく。

計画性なんていうことに拘らず、平気で捨ててみて、つまらなかったらやめれば良い。
計画がダメになるということも、計画のうちに入るかもしれない。
三日坊主でも構わない。その瞬間に賭けろ

「今はだめだけど、いずれ・・・」は絶対に言わない。
”いずれ”なんていうヤツに限って、現在の自分に責任をもってないからだ。
生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、現在に充実することだ。
現実逃避でしかない。

逆の発想をしてみる事を薦める。自分はダメな人間なんだとか、こうやったらきっとダメになるだろう、それならそのマイナスの方に賭けて見るんだ。自分でだめだろうと思う事をやってみる事だ。

大切なのは、他に対してプライドを持つのではなく、自分自身に対してプライドを持つ事。
他に大して、プライドを見せるという事は、他人に基準を置いて自分を考えている事。
相対的なプライドではなく、絶対感を持つ事、それが、本当のプライドだ。
笑われようが、バカにされようが、自分が本当に生きている手ごたえを持つ事がプライドなんだ。

幸福反対論者
世の中には酷い苦労をしている人がいっぱい居る。難民問題・差別・飢え、言い出したらキリがない。
だから、自分が幸福だなんてヤニさがっているのはとても、卑しい事だ。
自分さえ良ければ良いというのは、エゴイストで、エゴイストでなければ、”しあわせ”はあり得ない。

行き詰まりを切り開くには、行き詰まりに追われたら逃げないで、自分自身を行き詰まりに突っ込んでいく。
強烈に行き詰った自分に戦いを挑んでいく事だ。行き詰まりを越え、うれしく展開されてゆくんだ。

友達に好かれようと思わず、友達から孤立してもいいと腹を決めて、自分を貫いていけば、本当の意味でみんなに喜ばれる人間になる。

自分はあまり頭も良くないし、才能のない普通の人間だから何も出来ないじゃないか、なんて考えるのはごまかしい。そういって、自分がやらない口実にしてるだけだ。
才能なんて無いほうが良い。才能のある者だけがこの世で偉いんじゃない。
才能のあるなしに関わらず、自分として純粋に生きる事が、人間の本当の生き方だ。
頭がいいとか、体が良いとか、また才能があるなんてことは、逆に生きていく上で、マイナスを背負う事だと思っていいくらいだ。

俗に「失敗は成功のもと」という。そんな功利的な計算ではなく、イバラの道に傷つく事が、また生きる喜びなのだ。通俗的な成功にいい気になってはならない。
むしろ「成功は失敗のもと」と逆に言いたい。その方が、この人生の面白さを正確に言い当てている。
たんたんとした道をすべって行く虚しさに流されてしまわないで、傷つき、血の吹き出る身体を引きずっていく。言いようの無い重たさを、ともども経験し、噛み締めることだ。それが人生の極意なのである。

ただのなまぬるいサラリーマンになる事は容易だ。しかし、そこでは本当の自分を誤魔化して、画一化するより他ならないのだ。それよりも、自分の目、手で触れる、だからこそ危険な道を切り開いていくべきだ。

世の中上手くやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。一応世間体もよく、うまく行くかもしれないが、本当に生きているのではない。流されたままで生きているにすぎない。

芸術の場合「きれい」と「美」とは厳格に区別しなければならない。
「あら、きれいねえ」と言われるような絵は、相対的価値しか持ってない。
その時代の承認ずみの型、味わい、つまり流行に当てはまって、抵抗が無い。
人間みんながもっている存在の奥底の矛盾、どんな俗人の中にもひそんでいる、いやったらしいほどの切実な、その実感には触れられていない。

芸術は爆発だ。
芸術というのは、生きる事そのものである。人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命を突き出し爆発する、その生き方こそが芸術なのだということを強調したい。
全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーっとひらくこと。それが「爆発」だ。人生は本来、瞬間瞬間、無償、無目的に爆発しつづけるべきだ。いのちの本当のあり方だ。

本当に生きがいをもって、瞬間瞬間に自分をひらいて生きているかどうか。
システムのベルトコンベアーに乗せられて、己を失って、ただ惰性的に生活を続けているというのなら、本質的に生きているとはいえない。ならば人類滅亡論をいうことも意味が無いじゃないか。ひとりひとりが強烈な生きがいに満ち溢れ、輝いて生きない限り。