1946年から51年までの6年間ほど、沖縄は子供から老人まで、みんなが密貿易に関わる異様な時代だった。
その中でも、「女親分」として、君臨していたのが夏子であり、この時代の象徴的な存在であった。
沖縄は、1950年10月まで対外貿易が禁止され鎖国状態であった
戦後、配給物資の量が十分でなく、飢えているのに貿易できない状況の中で、密貿易は自然発生的に始まった。
与那国と沖縄本土を往復するだけで、現金が4倍になったという。
努力すれば報われる。みな、夏子から夢を貰っていた。

与那国島で密貿易が公然と行なわれていたのは、沖縄を占領した米軍が沖縄本土を統治するのが手一杯で、
与那国まで取り締まりの手が回らなかったからだと言われる。
言い換えれば、与那国は米軍政府からも日本政府からも見捨てられた島だった。
こうした宙ぶらりんの状態で、密貿易は全盛期を迎える。

密貿易全盛期には我が子を顧みず、運動会や13歳のお祝いにも出席せず母親として自覚が無い様な気もしたが、
密貿易時代に幕が閉じ、表舞台で活躍しようとした頃からは、教育の事を考えたり
入院中には手紙で子を心配する文章を読んで、我が子を思う母親の一面が見れて安心した。